ナキウサギは、北海道の山岳地帯だけに暮らす手のひらサイズの小さなウサギの仲間です。一見するとネズミやハムスターのように見えますが、れっきとしたウサギ目の動物で、「キチッキチッ」「ピィッピィッ」という甲高い鳴き声が名前の由来になっています。
数万年前の氷河期にシベリアから北海道に渡ってきたとされるこの動物は、冬眠をせず自分で干し草を作って冬を乗り越えるという独特の生態を持っています。体長わずか15cmほど、体重は130g前後。警戒心がとても強く、生息数も多くないため、実際に目にしたことがある人はごく限られています。
この記事では、ナキウサギとはどんな動物なのか、その生態や鳴き声の特徴、ペットとして飼育できるのか、北海道での観察スポット、そして保護をめぐる現状まで、幅広く紹介していきます。
ナキウサギってどんな動物?

ナキウサギは、ウサギ目ナキウサギ科ナキウサギ属に分類される哺乳類です。現生するものは1科1属で、世界にはおよそ30種が確認されています。分布域はアジア、北アメリカ、そして東ヨーロッパの一部。日本ではエゾナキウサギ(キタナキウサギの亜種)が北海道の中央部から北東部の山岳地帯にのみ生息しています。
見た目はネズミやハムスターに近い印象ですが、ウサギの仲間であることを示す決定的な違いが歯にあります。ネズミの門歯(前歯)が1対であるのに対し、ナキウサギは上の門歯が2対(二重構造)になっています。かつては「岩鼠」「ゴンボネズミ」と呼ばれていた時代もあり、長らくネズミの仲間と混同されていた歴史があります。
体の特徴とサイズ感
エゾナキウサギの体長は10〜20cm程度、体重は60〜150gほど。日本に生息する他のウサギ(ニホンノウサギやエゾユキウサギなど)が体長50cm前後、体重2〜3kgであることを考えると、そのコンパクトさが際立ちます。
耳は小さく丸い形をしていて、これは岩と岩の隙間に暮らすナキウサギにとって邪魔にならない構造です。尾は5〜7mmと極端に短く、体毛に埋もれてほとんど見えません。長いヒゲはセンサーの役割を果たしており、暗くて狭い岩の隙間でも自在に動き回ることができます。
毛の色は年に2回生え替わり、夏は赤褐色、冬は灰褐色から暗褐色に変化します。この毛色が周囲の岩や植物と同化するため、目視で見つけるのは容易ではありません。
「鳴くウサギ」という直球の和名
ナキウサギの和名は漢字で「鳴兎」と書きます。その名のとおり、よく鳴くことが最大の特徴です。特に繁殖期にあたる5〜6月頃は鳴き声が盛んに聞かれ、オスが発する長い鳴き声やメスの短い鳴き声など、バリエーションがあります。
鳴き声は「キチッキチッ」「ピィッピィッ」「ピチュッ」といった甲高い音で、体が小さい割に声量が大きく、大雪山では100m先からでもはっきり聞こえるほどです。日本に生息する小型哺乳類のなかで、これほど大きな声で鳴くのはナキウサギくらいとされています。
鳴き声はコミュニケーションの手段
ナキウサギが鳴くのは、単に声を出しているわけではなく、縄張りの主張や仲間への警戒信号といったコミュニケーションの手段です。天敵の接近を仲間に知らせるホイッスルのような警戒音は、群れの生存に直結する情報伝達の役割を果たしています。
ちなみに、英名の「Pika」はツングース語の「piika」に由来し、属名の「Ochotona」はモンゴル語の「ogotona」が語源です。旭川地方や十勝地方のアイヌの人々は、ナキウサギのことを「チチッ・チュ・カムイ(チチッと鳴く神様)」と呼んでいたと伝えられています。古くからその存在が人間に知られ、親しまれてきた動物だということがわかります。
ナキウサギの生態と暮らしぶりは?

岩の隙間が住処
ナキウサギが暮らしているのは、大きな岩がゴロゴロと積み重なった岩塊地(がんかいち)です。岩と岩の間にできる隙間を住処にしており、猛禽類やオコジョといった天敵から身を守る場所として、また子育てや冬越しの場として利用しています。
涼しい環境を好むため、北海道では標高の高い山岳地帯に限って生息しています。大雪山系や日高山脈、然別湖周辺がよく知られた生息地です。生息環境への選択性が強いことから、道内でも分布は不連続で、個体群が各地で孤立している状態にあります。
自分で「干し草」を作る
ナキウサギの生態でとりわけ興味深いのが、冬眠をしないという点です。北海道の厳しい冬を岩の隙間の中で過ごすナキウサギは、冬の食料を自力で確保する必要があります。
そのために行うのが「貯食」です。夏の終わりから秋にかけて、新鮮な植物の葉や茎を集めて岩場に積み上げ、干し草にして巣穴に運び込むという、まるで農作業のような行動を見せます。大雪山ではイワブクロの葉を好んで収穫する姿が観察されており、大きな葉っぱを口にくわえて走るナキウサギの姿は、写真愛好家にも人気の被写体です。
ただし、他の個体が作った干し草をこっそり持ち去るという行動も報告されています。その争いが天敵であるオコジョやアオダイショウに漁夫の利を与えてしまうこともあるというのは、なかなか世知辛い話です。
食糞という独特の栄養補給法
ウサギ目の動物に共通する習性ですが、ナキウサギも食糞(しょくふん)を行います。ナキウサギが出す糞は2種類あり、ひとつは丸くて硬い硬糞、もうひとつは黒いタール状の軟糞(盲腸糞)です。
軟糞は盲腸内の微生物の働きによって植物繊維がタンパク質やビタミンに変換された、栄養価の高い糞です。ナキウサギはこの軟糞を食べることで、栄養分の乏しい秋の植物からも効率よく栄養を摂取しています。軟糞を岩の上にいったん排出し、天日で乾燥させてから食べるという行動も確認されており、秋にナキウサギの生息地を注意深く探すと、乾燥途中の軟糞が見つかることがあるそうです。
ナキウサギが北海道にいる理由は?
ナキウサギが北海道にいるのは、数万年前の氷河期(ウルム氷期、約7万〜1万2千年前)にシベリアから渡ってきたためです。当時は海水面が低下し、ユーラシア大陸と北海道はサハリンを経由して陸続きになっていました。マンモスやヒグマなどとともに、ナキウサギもこのルートを通って北海道に到達したと考えられています。
その後、気候が温暖化して海水面が上昇すると、大陸との陸橋は失われ、ナキウサギは北海道に取り残されました。暑さに弱いナキウサギは涼しい場所を求めて山岳地帯に移り住み、現在に至るまでそこで暮らし続けているというわけです。
ナキウサギはしばしば「氷河期の生き残り」「生きた化石」と表現されることがあります。ただし、キタナキウサギ自体はウラル山脈からシベリア、カムチャツカ、モンゴル、中国東北部、朝鮮北部、サハリンまで広く分布しているため、北海道のナキウサギが世界的に見て固有種であるというわけではありません。
ナキウサギに会える場所と観察のポイント

日本でナキウサギを観察できるのは北海道の山岳地帯のみです。よく知られている生息地としては、大雪山系(緑岳の岩塊地が有名)、日高山脈、そして十勝管内の然別湖周辺があります。
とかち鹿追ジオパークのエリアにあたる然別火山群の一帯もナキウサギの生息地で、比較的アクセスしやすい観察スポットとして知られています。ただし、標高の高い場所にしか暮らしていないこと、体が小さく毛色が岩に溶け込むこと、そして警戒心が強くて人の気配を察知するとすぐに岩の隙間に隠れてしまうことから、実際に姿を見られるかどうかは運の要素も大きいのが現実です。
見つけるコツは「鳴き声を聞く」こと
ナキウサギを探すうえで最大の手がかりになるのが鳴き声です。「ピチュッ」「ピィッ」という甲高い声は、慣れていないと鳥のさえずりと聞き間違えてしまうことがあります。北海道在住の登山愛好家でも、ナキウサギの鳴き声を知らない人は意外と多いそうです。
岩場全体を広く眺めて、動く個体にアンテナを張っておくのも有効な方法です。ナキウサギは日光浴のために岩の上に出てきてじっとしていることがあり、そのタイミングを狙うと観察しやすくなります。
観察時のマナー
ナキウサギの生息地を訪れる際には、いくつかのマナーを守ることが求められています。岩場の植物を踏まないこと、岩をたたいたり大きな音を立てたりしないこと、近づきすぎないことなどが基本です。
近年、観察者が増えたことにより踏みつけで植物が減少し、土がむき出しになってしまった場所が増えているという報告もあります。ナキウサギは限られた環境にしか暮らせない動物ですから、その生息地の環境を守ることが、結果的にナキウサギの保護につながります。エサを与えたり、長時間にわたって同じ場所に滞在したりすることも避けるべき行動です。
ナキウサギは飼育できる?
ナキウサギの姿を見て「飼ってみたい」と思う方もいるかもしれませんが、ペットとしての飼育は現実的ではありません。理由はいくつかあります。
まず、ナキウサギは高温に弱く、適温は12℃前後とされています。25℃以上の環境が続くと数日で命に関わるほどで、日本の一般家庭で年間を通じてこの温度を維持するのはかなりの設備と負担が必要です。そもそも標高の高い寒冷地の岩塊地という特殊な環境に適応した動物であり、人の手で同等の飼育環境を再現する方法は確立されていません。
加えて、ナキウサギは警戒心がきわめて強い動物です。人間をとても警戒し、慣れることはほとんどないとされています。「ナキウサギを慣れさせるには1000年かかる」という表現があるほどで、ペットとしての適性が低い動物であることは間違いありません。販売しているペットショップもほぼ存在せず、入手経路自体がないのが実情です。
動物園でも会えない
では動物園ならナキウサギに会えるかというと、こちらも現状では難しい状況です。現在、日本国内の動物園でナキウサギを飼育展示している施設はありません。
過去には多摩動物公園でアフガンナキウサギが飼育されており、1980年には繁殖にも成功しています。ニホンノウサギの隣で展示し、ウサギ科とナキウサギ科の違いを知ってもらうための展示として公開されていました。しかし、飼育の難しさや生態の未解明な部分が多いことなどから、現在は飼育されていません。
つまり、日本でナキウサギに会いたいなら、北海道の山岳地帯に足を運んで野生の個体を観察する以外に方法がないというのが現時点での状況です。それだけに、実際に出会えたときの感動は格別なものがあるのでしょう。
ナキウサギをめぐる保護の現状
エゾナキウサギは環境省のレッドリストで準絶滅危惧種に指定されていますが、国の天然記念物には指定されていません。2005年には市民団体「ナキウサギふぁんくらぶ」が約43,400筆の署名を集めて天然記念物指定を求めましたが、地元自治体の消極的な姿勢などを理由に、文化庁は指定を見送っています。
その後の調査では、帯広市や上士幌町、鹿追町など複数の自治体が指定の必要性を認める回答を出しているものの、全体としての動きは鈍い状態が続いています。生息域の大部分がすでに保護区域に含まれていることから、追加の指定は不要という見方もある一方で、森林伐採や道路開発による生息地の分断が進んでいるという指摘もあります。
気候変動の影響
ナキウサギにとってもうひとつの脅威が気候変動です。暑さに弱いナキウサギは涼しい高山帯に追いやられる形で暮らしていますが、温暖化が進めば適した生息地はさらに狭まっていきます。北アメリカのナキウサギについては、生息域の高度が上昇しつつあるという研究報告もあり、同様の影響が北海道のナキウサギにも及ぶ可能性は否定できません。
さらに近年では、シカの増加による生息地への侵入も確認されており、ナキウサギを取り巻く環境は複合的な課題を抱えています。
まとめ
ナキウサギは、北海道の山岳地帯だけに暮らす手のひらサイズのウサギの仲間です。数万年前の氷河期にシベリアから渡ってきた地理的遺存種で、岩塊地の隙間を住処にして、冬眠せずに自分で干し草を作って厳しい冬を乗り越えます。
気候変動や生息地の開発など、ナキウサギを取り巻く環境には課題もあります。ペットとしての飼育はできず、現在は動物園にもいないため、会えるのは北海道の山だけです。もし観察に出かける機会があれば、植物を踏まない、近づきすぎない、静かに見守るといったマナーを守りながら、この小さな「鳴く神様」との出会いを楽しんでみてください。